~きっかけ~から次は専門学校時代~社会人の軌跡~開業と続いていきます。
これは「もっと院のこと、私個人のことを知っていただきたい」という想いから発信しています。こんな経験を積み上げて僕自身が出来上がっています。かなりOPENな一面です。
さて、この前からの続きになりますが、18年間生活してきた大田市から、大阪へ。
吹田市の下新庄にある明治東洋医学院専門学校 柔道整復師学科(三年間)へ入学。
柔道整復師への道
そこでは年齢もバラバラで18歳の同級生も10人前後。あとは全員年上で私の父親世代もいました。人生経験豊富なクラスメートでいろんな刺激をもらいます。
すでに整骨院で働きながら通う方。
学校に入る前はサラリーマンとして営業をしていた方。
スポーツ選手として活躍していた方。
スポーツトレーナーとしてすでに治療院を構えている方。etc
クラスのほとんどが働きながら学校に通うというシビアな世界。
午前中12時までは整骨院で勤務して、13時から学校が始まります。
16時に学校が終わり、17時から職場に戻り仕事に打ち込み20時に終わるという生活を毎日送っていました。
夜帰宅したあとは、勉強をし、移動時間の電車の中ですら勉強。一般的にいう苦学生の仲間入りです。仕事内容は、院長先生の治療補助から、受付業務、物療機器の操作となんでもこなしていました。
整骨院で見た患者さんの疾患、病気をメモ。
それを学校で学ぶことと照らし合わせて、先生に直接聞くことで治療法を模索します。
(※画像は先生方です)
図書館に本で調べもの、参考書を何冊も購入し勉強。クラスメートに聞いて問題を解決したりと【身体のことや治療方法について】がむしゃらに勉強した三年間でした。
その中でもいろんな事があります。
島根の田舎町から出てきた少年が右も左もわからず歩んでいくには、すごいエネルギーがいります。
僕は大阪に来た当初は、「なんでも出来る!やってやろう!」とかなり自信満々でしたが、一人暮らしと働き始め、学校生活はそう簡単なものではなく、地獄に落とされたかのごとく打ちのめされました。
社会の厳しさや対人関係、一人で生活をするという困難さに直面していたわけです。
でも、
僕を突き動かしていたものがあります。【夢】がありました。
そう「大田市に帰って整骨院を開業して地域の医療に貢献するんだ!」
その原動力が邁進する力となり、柔道整復師となる力となりました。
無事に国家資格も取得して次は同じ専門学校の鍼灸学科(昼間部)に卒業と同時に入学。(三年間)
鍼灸師への道
柔道整復師の免許を取得して、次は鍼灸学科へ。と同時に国里整形外科リハビリテーション科に就職。
午前は仕事、お昼からは学校、夕方からは仕事の生活は続きます。
そこでは一日300名近くの患者さんが来院されるクリニックで、僕の仕事内容はリハビリテーションです。骨折脱臼、捻挫のあとのリハビリをしていきます。
従業員も50人近くその当時はおられ社会の一員としての自覚が生まれたのもこの頃(21歳)。ドクター、看護師、調理師、理学療法士、柔整師、鍼灸師、トレーナーと数多くの職種が連携し疾患を治していき社会への復帰を手助けしていく仕事でした。
そこで働きながら専門学校へ通う日々。
ここでも整骨院では診れない疾患や病気を経験することもでき、またドクターや看護師との連携といった多職種の意見も聞けたことはいい経験です。
専門学校と仕事と両立しながら、スポーツトレーナーの現場にも足を運ぶ日々が続きます。
日本陸上競技連盟の認定トレーナーとして関西で行われる大会にサポートスタッフとして参加。大阪世界陸上のトレーナーとして救護活動や選手村への派遣も経験させてもらいます。
関西大学陸上競技部でのトレーナー活動、また同大学アスレチックトレーニングルームでインターントレーナーとして活動。サッカー、アメフト、バレー、野球といったさまざまなスポーツに携わることもできました。
鍼灸学科に通うなかで、たくさんの経験を仕事、トレーナー現場で学ぶことができ、無事に鍼灸師の国家資格も取得。
柔道整復師・鍼灸師として
両方の国家資格を取得したあとは、整形外科で経験とスキルに磨きをかけていく毎日。
新しい試みとして、経絡治療学会 関西支部に入会。
京都烏丸にある〔鍼灸メリディアン烏丸〕の中根一先生の勉強会にも参加。
東洋医学、鍼灸学の勉強をさらに進めていきます。
学校を卒業し資格を持つと、学生のときとは全く違い〔責任〕が伴ってきます。
結果をださないと患者さんのニーズに沿えない。ましてや満足してもらうという事もできない。笑顔にだってできない。
そんなシビアな世界で、結果を出していくことに徹してストイックに仕事に励んでいたのを覚えています。
この続きは〜社会人の軌跡~の中でお話します。
つきもり鍼灸整骨院
月森
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